ネロとパトラッシュは負け犬か

フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20071225i302.htm?from=navr

これ読んで思わず涙目。いや記事が悪いのではなく、私が「フランダースの犬」の最終回を思い浮かべるか「大きな古時計」の3番を歌うか「かわいそうなぞう」を読むかすれば10秒でウルウル来るというだけなんだけど。
それにしても驚いた。「欧州では、物語は『負け犬の死』としか映らず、評価されることはなかった」「米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた」「悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた」。えええええええ! ネロが負け犬って! ハッピーエンドに改変って!! 共感を集めたのが謎って!!! そこにいちいちつっこんでしまうのはマジで日本人だけなの? 物語がウケるウケないは別としても、にわかには信じがたい。そんなに特異な感性なんだろうか。
そして「滅びの美学」と言われるとまたしても首をかしげてしまう。そうかなあ? インタビューされた人がなんか便利な言葉だからちょっとニュアンスは違うんだけど使ってみた、ってだけじゃないの? などと疑ってしまう。NHK大河「新選組!」のときもよく滅びの美学という言葉を使ってコメントするひとがいたが、いやーそれは違うんじゃない? と思いつつじゃあ何なのよと言われればうまく説明できなかったりしたことがあった。今回もそう。ああ胸がもやもやする。
普通に考えて、いくら日本人が「滅びの美学」好きでも、武士ならともかくがんぜない子どもと犬にまで適用したりはしないのでは? そもそも観ていたほうも子どもなわけで。自分と同じくらいの年頃のネロをとりまく状況にシンクロして一喜一憂、最終回ではネロがかわいそうでたまらない、でもパトラッシュが来てくれて、絵も見られてよかったねー! くらいのもんではなかったろうか。理屈をこねる余地などないにもかかわらず日本を代表するソウルアニメとなったのは「滅びの美学」に起因するとは私には思われない。
なにが人々の心の琴線にふれたのだろう。ウィーダの原作は未読なのだが、世界名作劇場版とでは内容がかなり違うのだろうか。ひとつ主張しておきたいのは、名作劇場版は最終回だけが感動的なんじゃなくて、それまで丹念に描かれてきた(全52回!)ネロの人生の幸福と不幸、こまごました苦労と喜びのつみかさねがあって初めてラストシーンが胸をうがつものになるんだということ。海外の人はダイジェストではない第1話から全部観た感想を述べているのか、そこらへんは確認したいところだ。
これはただ貧乏な子供が死んだだけの話でも、辛く哀れなだけの話でもない。ネロは社会の悪意に磨り潰されて失意のまま死んだわけじゃなく、おじいさんやアロアたちの愛情を受け、絵を描くことに喜びをみいだし、常に傍らに寄り添うものがいて、満足のうちに穏やかに亡くなったのだ。そりゃ彼らの愛情も献身もネロに物質的な利益はもたらさなかった。富貴どころかその日の暮らしにも困りはて、名誉を受ける機会すら失ったまま逝った。だがそれを「信義や友情のために敗北や挫折を受け入れ」た姿と見るのは苦しいと思う。
ネロはささやかで平和な暮らしを望みこそすれ、立身出世を望んだことはいちどもなかった(まあ子どもだから当たり前なんだけど)。はじめから望んでないものを得られず、社会の成功者でなかったからといってつまらない人生ということになるだろうか。金で買えないものはもちろんあって、ネロからそれを奪うことは世間の冷たさすらもなしえなかった。ネロは決して「負け犬」として描かれてはいない。なぜならこれは勝ち負けに価値をおいた物語ではないから(原作もそうであると信じたい。あとで読も……)。
ネロに共感する人は彼のような境遇になりたい、貧乏のどん底で死にたいと思っているわけじゃないだろう。憐憫の情はおおいにあるだろうが、憐れみだけでわざわざアントワープまで出かけていって泣く酔狂な人は(たぶん)おるまい。これ以上ないほどの悲劇のなかにあっても歪まなかったネロの魂のありかたを肯定しつつ、自分もかくありたいと願う真摯でポジティブな気持ちがルーベンスの絵の前にたたずんで涙する行為となるのではないかと思う。……などと分析するそばからズレてくような気がするなあ。それにやっぱり日本人に限ったこととも思われない。
ともあれこの検証ドキュメンタリー映画がどんな内容なのかはかなり気になる。